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多摩川の歴史

 多摩川には河口から、長い堤防が続いています。 私達がいつもサイクリングや散歩を楽しんでいるこの堤防が、洪水から暮らしを守るために、昔の人々が努力して造り上げたものだということをご存知ですか? かつて、大雨のたびに氾らんを繰り返した「あばれ川」多摩川、たび重なる堤防の決壊に、住民が立ち上がってついに完成させたのが、今のガス橋の近くになごりを残す有吉堤です。
 今の多摩川は、「あばれ川」のおもかげも薄れ、めったなことでは大きな洪水は起こりません。それは昔の人々が今ここに暮らす私達に残してくれた遺産なのではないでしょうか。

多摩川の地理 〜笠取山を源流とする138kmの旅〜

 多摩川は、山梨県笠取山(標高1,941m)に水源を発し、東京湾に注ぐ全長138㎞、流域面積1,240㎢の一級河川です。
 上流付近では丹波川(たばがわ)と呼ばれ、東京都の水ガメである奥多摩湖から東京都に入り日原川と合流して青梅にいたります。青梅は山と平地の接点にあたり、ここまで深いV字谷を刻んで流れてきた川は大きな扇状地を形成します。

 流域は、山梨県・東京都・神奈川県の2区22市3町3村より構成され、流域内の人口は425万人。地形は、山地が68%、32%が平地です。年間の降水量は約1,400㎜で、6月から9月にかけて多摩川の流量は量富になり、冬季には少なくなります。水源より流下した水は奥多摩湖でいったん貯留された後、羽村取水堰でほぼ9割が取水され、東京都の都市用水として使用されています。調布取水堰より下流は感潮区間となっており、河床材料は上流から礫・砂、下流部は泥・砂で構成されています。

 奥多摩湖は東京都西多摩郡奥多摩町にある、小河内ダムによってできた人造湖はです。東京都の水ガメとして1938年(昭和13)着工、第二次大戦で一時中断し、1957(昭和32)年完成。満水面積4.4平方キロ、水道用ダムとしては世界一の規模といわれるが受水地域が狭く水量は年により大きな差があります。

 奥多摩湖は東京都西多摩郡奥多摩町にある、小河内ダムによってできた人造湖はです。東京都の水ガメとして1938年(昭和13)着工、第二次大戦で一時中断し、1957(昭和32)年完成。満水面積4.4平方キロ、水道用ダムとしては世界一の規模といわれるが受水地域が狭く水量は年により大きな差があります。

 多摩川の流域となっている東京の三多摩といわれる地域は、かつて神奈川県に属していましたが明治26年に東京都に移管されています。東京の水源確保というのが主な理由ですが、自由民権運動が盛んだった地域を分断する目的があったともいわれています。

 多摩川に沿って地図を見ていくと、野毛のように両側に同じ地名の有る部分がいくつもあります。上流から、布田、和泉、宿河原、宇奈根、瀬田、等々力、丸子、沼部など場所によって上や下の字が付くがいずれも共通した地名で、これはかつて洪水のたびに流れが変わったため、もとは地続きだったことによります。

 上流域は江戸時代から林業が発達し幕府の御林もあり、ここから切り出された木の多くは筏に組まれ多摩川を下りました。中流域では玉川上水をはじめとして多くの用水を取水し、台地が開拓され、武蔵野の新田開発が行われました。江戸時代には二ヶ領用水により下流の地域が豊かな水田地帯となりました。

多摩川の自然 〜多摩川にいきませんか〜

 多摩川の自然についてどれだけご存じですか? 時には自然浴なんていうのも、いかがでしょうか。 たまには時計をはずして、こんな一日を過ごすのも心のビタミン補給になるはずです。
 自然観察をはじめてみませんか? 大きく深呼吸して、視覚で、聴覚で、嗅覚で自然の素晴らしさを感じてください。親しむことが知ることであり、知ることが愛することのはじめの一歩です。

●野鳥

 多摩川にはたくさんの野鳥がやってきます。なかでも水鳥は大きなものが多いので、じつくりと観察することができます。季節を問わず楽しめる好フィールドですが、特に冬はカモの種類が増え、より多くの野鳥を観察するには最適です。
 バードウォッチングは、特別な道具がなくてもできますが、双眼鏡、図鑑、フィールドノート(観察したことをメモする)があるとより充実します。陽射しや雨を考えて、帽子もあると便利です。また、鳥を驚かさないように派手な服装は避けましよう。

【観察できる鳥】

▪水面
カルガモ、マガモ、コガモ、オカヨシガモ、ヒトリガモ、スズガモ、カイツブリ、カワウ、ウミネコ、ユリカモメ
▪川岸・水辺
コサギ、チュウサギ、ダイサギ、アオサギ、ゴイサギ、ササゴイ、ヨシゴイ、コチドリ、シロチドリ、イカルチドリ、ハマシギ、イソシギ、ウミネコ、コアジサシ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイ、カワセミ
▪河原
ハシボソガラス、ハシブトガラス、スズメ、ヒヨドリ、ムクドリ、カワラヒワ、ホオジロ、キジバト、モズ、オナガ、キジ、ツグミ
▪河畔林
メジロ、シジュウカラ、エナガ、ウグイス、コゲラ、ハヤブサ、オオタカ
▪空
ツバメ、ヒバリ、トビ、チョウゲンボウ、ヒメアマツバメ
▪声が聞ける鳥
オオヨシキリ(5〜7月)、シジュウカラ・メジロ・ウグイス(3〜4月)
ヒバリ(6〜7月)、セッカ(5〜8月)

●水の中の生き物

【魚】

▪上流
イワナ、ヤマメ、ウグイ、ニジマス、ホトケドジョウ、ギバチ、
▪中流
アユ、アブラハヤ、オイカワ、カマツカ、ギバチ、ギンブナ、コイ、シマドジョウ、
ニゴイ、ウキゴリ、ウナギ、タモロコ、タイリクバラタナゴ、オイカワ、ナマズ、シマドジョウ
▪下流・汽水
ヒイラギ、ヒメハゼ、ボラ、マコガレイ、マゴチ、マハゼ、メバル、トビハゼ、スズキ、サッパ、コノシロ、アシシロハゼ、モツゴ

【その他の生物(カニ、エビ類)】

アシハラカニ、ヤマトオサガニ、コメツキガニ、チゴガニ、テナガエビ、スジエビ、アメリカザリガニ、サカマキガイ、モノアラガイ、ヤマトシジミ

●植物

 多摩川の土手や河原には、野草が草むらを作っています。雑草という言葉でかたづけずに観察してみましよう。密かに咲く小さな可愛い花には愛矯があります。ルーぺや図鑑があると、さらに観察の幅が広がります。

【観察できる植物】

▪白
ヒメジョオン、オオアレチノギグ、ヒメムカシヨモギ、チガヤ、イタドリ、ハコベ、シロツメクサ、ヤブジラミ、コヒルガオ、ススキ
▪黄
イヌガラシ、コウゾリナ、スベリヒユ、メマツヨイグサ、カタバミ、オニタビラコ、セイタカアワダチソウ、ミヤコグサ
▪青
ツユクサ、オオイヌノフグリ、ショカッサイ
▪赤
アカツメクサ、ネジバナ、ヌスビトハギ、イヌタデ、ヒメアカバナ
▪紫
クズ、チカラシバ、ノアザミ、ハナダイコン
▪茶
カモガヤ、ウラジロチチコグサ、ガマ、メリケンカヤツリグサ
▪緑
ブタクサ、エノコログサ、ギシギシ、ヒナタイノコズチ、シマスズメノヒエ

●昆虫

 植物の陰には、昆虫がさまざまな動きをしています。その行動を観察するのも案外おもしろいものです。そして秋には、昆虫の鳴き声が風情を感じさせます。

【観察できる昆虫】

▪トンボ類
オニヤンマ、シオカラトンボ、カワトンボ、ショウジョウトンボ、ウスバキトンボ、
アメンボ、ハグロトンボ
▪チョウ類
モンシロチョウ、モンキチョウ、スジグロシロチョウ、ベニシジミ、キタテハ、
アカタテハ、アゲハ

二ヶ領用水って

二ヶ領用水はなぜ造られた?

 そもそも二ヶ領用水は1590(天正18)年に多摩川が大洪水を起こして流路を変えたことから、新たに農業用水を引き、水田を開発するために造られました。この用水を用いて栽培された米は3代将軍家光が鷹狩りに来たときに賞味し、以来将軍家の御飯料になりました。のちに稲毛米と呼ばれ、江戸ですし飯として大人気だったそうです。

二ヶ領の「二」の意味は?

 川崎領と稲毛領の「二」つの「領」にまたがって流れたことに由来します。二ヶ領用水と対岸の世田谷領・六郷領を流れる六郷用水を合わせて「四ヶ領用水」と総称することがあります。両用水は同じ小泉次大夫の指揮のもとに、ほぼ3か月交代で交互に工事が進められました。そのため「双子の用水」と呼ばれたりします。

変わる用水の用途

 水田を灌漑し、農民たちの生命の水として使われてきた二ヶ領用水ですが、時代とともにその用途は変化してきました。近年に入ってからは、農業用水だけでなく、工業用水にも用いられました。さらに現在では、都市生活に潤いを与える環境用水として、その位置づけは大きく変わりました。

二ヶ領用水はどこからどこまで?

 二ヶ領用水は多摩川に2カ所の堰を設けて取水しました。ひとつは上河原堰、もうひとつは宿河原堰です。この二つの堰で取り入れた用水路は、JR南武線久地駅近くで合流し、今の川崎市域のほぼ全域に枝分かれして流れました。
 幹線水路の全長は約32kmといわれましたが、現在は多摩川大橋に近い平間浄水場の横までしか残っていません。

二ヶ領用水はいつできた?

 関ヶ原の戦いがあった3年前1597年に測量が始められ、その2年後に開削工事にとりかかりました。完成したのは測量 開始から14年後の1611(慶長16)年です。
現在のJR南武線沿線の地域は、この用水によって農村地帯として発展しました。

二ヶ領用水を造ったのはだれ?

 二ヶ領用水上河原線にかかる台和橋のレリーフや世田谷区の次太夫堀公園に、その名を残しているのが小泉次太夫という人です。徳川家康の家臣で、用水開発を家康に進言して、四ヶ領用水開削の用水奉行に任命されました。この次太夫の指揮の下に、地域の人たちが協力して用水が造られたのです。

二ヶ領用水はどのようにして造られた?

 今のように機械など全くない江戸時代です。用水堀りは、ひたすら人の力で行われました。クワやスキで土を掘り、モッコに入れて運び、土手などを造りました。このように実際に用水路をを掘っていったのは、地域の農民たちでした。二ヶ領用水は、農民の仕事の合間に、こうした作業を10数年も続けた農民たちの労苦のたまものといえます。

二ヶ領用水の保存運動

 春には水辺の桜並木がたいへん美しい二ヶ領用水ですが、少し前までは工場廃液や生活排水の流入で汚れきっていました。何とか、この用水堀に新しい存在価値を見いだして、後世に残していきたい。そのような市民の願いを実現するために、「二ヶ領用水の再生を考える市民の会」や「二ヶ領用水・中原桃の会」などが誕生しました。そして、市民が自ら考え、行動し、提案していく、行政との新しい提携が実を結んで、快適な水辺の環境やすてきな散策路が整備されました。今二ヶ領用水は、多摩川エコミュージアムプランの中に位 置づけられて、その歴史的役割を復権する手だてが模索されています。

多摩川の渡し

江戸時代の多摩川は、軍事上及び技術的な利用から橋よりも舟による渡しが主流で、小河内から河口に至るまでに、39ヶ所の渡しがありました。

冨嶽三十六景 武州玉川
東海道五拾三次之内川崎 六郷渡舟

多摩川にあった渡し場

川に橋を架けるということは、近代以前では大変難しく、有力な街道の渡河点でも橋がなく、多くは渡し舟によっていました。
 慶長5年(1600)に東海道が多摩川を渡る六郷では、長さ120間(約218m)の六郷大橋が架けられましたが、洪水のために何回も流れ去り、一時仮橋の時代があったものの、明治7年(1874)まで六郷の渡しとして橋のない状態が続きました。また、甲州街道の日野の渡し、日光街道の拝島の渡しのほか、大山街道の二子の渡し、津久井往還の登戸の渡しのような脇往還の渡船場も発達していました。
このように主に旅人が渡る渡船場が多く、また発達していたことが江戸に近い多摩川の渡船場の特徴であったといえます。しかし一方で、多摩川で最後まで残った菅の渡し(昭和48年廃止)などの生産物の出荷や対岸の田畑耕作に主として利用された作場渡しがあったことも忘れてはなりません。

<参考文献:「多摩川誌」建設省京浜工事事務所(現国土交通省)>

No.渡し場の名称用途廃止年廃止の理由
1上菅の渡し(矢野口の渡し)作場渡し昭和10年多摩川原橋の架設
2菅の渡し作場渡し昭和48年京王相模原線の開通
3下管の渡し(上府田の渡し)作場渡し昭和10年多摩川原橋の架設
4中野島の渡し作場渡し不明都市化
5登戸の渡し津久井街道不明都市化
6堰の渡し作場渡し不明
7宇奈根の渡し作場渡し不明都市化
8二子の渡し大山街道大正14年二子橋の架設
9諏訪の渡し作場渡し不明
10北見方の渡し作場渡し不明
11下野毛の渡し(野毛の渡し)作場渡し不明都市化
12宮内の渡し作場渡し昭和10年丸子橋の架設
13丸子の渡し中原街道、作場渡し昭和10年丸子橋の架設
14平間の渡し平間街道、作場渡し昭和6年都市化
15矢口の渡し(古市場の渡し)作場渡し、鎌倉街道昭和24年多摩川大橋の架設
16小向の渡し不明不明都市化
17六郷の渡し東海道明治6年左内橋(六郷橋の前身)の架設
18六郷渡しの下の作場渡し作場渡し不明
新渡し(中瀬の渡し)作場渡し不明
19大師の渡し(新渡し)川崎大師参詣、作場渡し昭和14年大師橋の架設
20羽田の渡し(六左衛門の渡し)作場渡し昭和14年大師橋の架設

 ※現在、川崎市内にあった渡しをまとめています。

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