登戸の渡し
 「津久井道」にかかる重要な渡し。   

 
「登戸の渡し」は、「津久井道」にかかる重要な渡しであった。
津久井道は、三軒茶屋より世田谷を通って登戸に至り、上麻生、淵野辺、橋本を経て津久井へ通じる道であり、江戸時代はこの道で炭や絹が運ばれた。
 「登戸の渡し」が初めて記録に見えるのは、正徳4年(1714)のことで(玉川渡船出入一件・東京都石井文書)。
もともと宿河原の久右衛門が船守を請負っていたが、家業を粗略にしたため、元禄5年(1692)江戸四谷の相模屋吉兵衛が請負うようになった。
その後、正徳3年(1713)から5年にかけて和泉村・宿河原村と吉兵衛との間で訴訟事件があったためである。
この訴訟は和泉村・宿河原村の勝ちとなり、再び久左衛門父子が渡し守を行うことになった。
 なお、この文書によれば夏季は渡船、10月1日から3月晦日までは仮橋が架けられた。
時代は降って明治になり、経営は登戸・和泉・宿河原の3村で持ったが、のち宿河原が権利を放棄し、和泉村と登戸で運営した。
宿河原からも船頭は出た。和泉と川崎側の登戸・宿河原で一日交代に3人ずつ出ていた。
当時渡しは、馬船1艘、伝馬船2艘で行われた。
 さて、渡し場の位置だが、江戸時代は宿河原に、明治になって現在の小田急の鉄橋から多摩水道橋の間にあったといえよう。
江戸時代はまだ両岸の村分けも複雑で、また多摩川の流れもいろいろ変わったようである。
正徳(1710年代)の頃には、渡し場は和泉・宿河原両村の地にあったようだが、寛政から文化のはじめ頃の「目黒筋御場絵図」に登戸渡船場とあるのは、駒井村と猪方村の飛び地の間であった。
また、『新編武蔵風土紀稿』の宿河原村の項では、「登戸渡村の西の方にあり、これ往昔鎌倉街道なるべし、此両岸とも村の地なれど、西岸は僅の地なり、しかも登戸村の接地にして其村へかよう渡なれば、登戸の渡と呼ぶなるべし」とある。
 また、文化10年(1812)の文書にも、「玉川渡船場之儀 川瀬相変候而往来筋二而渡船成兼」とある。
さらに、『江戸名所図会』で「登戸の渡し」は宿河原にある。
さらに、安政7年(1860)の「玉川通 鶴見川通 見張小屋詰村々書上」では、宿河原渡船場詰と表現されている。このように、江戸時代「登戸の渡し」は宿河原村にあった。
 ところが、
1)明治14年(1881)測量「登戸」二万分の一の地図では、渡しは現在の小田 急線の鉄橋の下あたり。
2)明治39年(1906)測量「下布田」二万分の一の地図では、「登戸渡」は現在 の多摩水道橋に近いあたり。
3)明治42年(1909)測量・昭和4年(1929)修正の「東京西南部」五万分の一 の地図では、小田急線より約100メートル上流。
4)昭和20年(1945)「登戸」一万分の一の地図では、小田急線より約    200メートル上流に「登戸の渡」とあり、近代は現小田急線と現多摩水道橋の 間を動いていたようである。
 なお、渡しは「作場渡し」的性格もあった。
すなわち、宿河原村は元狛江村の一部であったものが独立したものであり、狛江村の村民の田畑が多く宿河原に残り、一方、狛江側にも宿河原村民の土地があった。
このため、相互に作場通いの交通機関としても欠かせないものであった。
 渡し船に乗る人は、登戸方面からは生田、柿生の人たちが荷車に柿や梨をつんで、青山渋谷方面の市場へ、また、世田谷の農家の人たちは対岸の山に入り、落ち葉を掻き集めて運ぶ人が多かった。肥引きの車も多く、日曜になると行楽客がいた。
船頭小屋は、登戸側にあったり、狛江側にあったりした。
狛江側にある場合は肥引きで、夜中に川を渡る時は川崎側から「お〜い、お〜い」と対岸を呼んで迎えにきてもらった。
 しかし、大正14年(1925)二子橋、昭和2年(1927)小田急線が開通し、渡しの利用者が少なくなっていく。
 昭和18年(1943)、渡船運営は登戸左官業組合の請負となり、昭和22年(1947)に登戸が権利放棄して、左官業組合の直営となった。
皆、料金を払って利用することになった。渡しのなくなる前年、昭和26年(1951)の渡し賃は、大人10円、自転車20円、リヤカー30円、増水の時は割り増し料金つきだったという。
 また、その時の渡し場の位置は、登戸の吉沢石材店前の道を多摩川土手に出て降り、左側にある貸しボート屋隣にある赤い水神様の前の河原あたりとボート屋の老女はいう。
また、渡し廃止まで船頭をしていた人の話として、「船頭は一日交代で登戸側からは6人、和泉の方から5人出たと思う。
 船は馬船と伝馬船とあって、馬船の長さは7〜8メートル位で、床ははずれて平底にすることもできた。川の水位がいつより3尺増水すると船を出さなかった」と紹介している。
 「登戸の渡し」は、昭和27年(1952)1月に神奈川県知事あてに廃止願が出され、同年8月に廃止となり、その長い歴史の幕を閉じたのである。
多摩水道橋の開通式が行われたのは、翌昭和28年(1953)12月12日である。


昭和27年(1952)、多摩水道橋の開通で廃止された。