平間の渡し
東海道から南品川で分かれ、大井・新井宿・池上を通り、下丸子から対岸の上平間へ出て、加瀬・綱島へと続く平間街道が、多摩川を横切るところにあった渡しである。
 東海道から南品川で分かれ、大井・新井宿・池上を通り、下丸子から対岸の上平間へ出て、加瀬・綱島へと続く平間街道が、多摩川を横切るところにあった渡しである。
 『新編武蔵風土記稿』に拠ると、江戸より往来の渡しとされ、10月から3月までは仮橋を造り、渡船場付近を「萩原瀬」といった。明和3年(1766)から年毎に運上金を若干納めており、渡しの起源はもっと古いようだ。
「正保年中改訂図」(1644〜47)に舟渡百聞の記載がある。
平間街道は東海道の間道であったばかりでなく、沿道の村むらが江戸市中へ野菜などを出荷する重要な生活路であって、その一部は「品川道」「池上道」とも呼ばれた。
 明治9年(1876)大森駅が開設されると、この道は品川からというより次第に大森へ向かう道に変化した。大正元年(1912)頃乗合馬車(大森〜池上)の登場で、大森駅から都心へ通う人びとを運ぶようになった。
 その後、昭和4年(1929)東京ガスが鶴見から東京へガスを送る高圧管を設置するため、上平間〜下丸子の架橋を神奈川県へ申請した。これを聞いた両岸の矢口・調布・平間・中原などの各町村が、人道橋の併設を求めた。その結果、鉄筋コンクリート橋脚の上に2本の太いガス管を載せ、その間に巾1メートルの木製橋が設けられた。
 ガス人道橋が完成したのは昭和6年(1931)9月で、今のガス橋の前身である。と同時に川下にあった平間の渡しは無くなった。
 現在のガス橋は戦後の昭和35年(1960)に開設されたものである。巾11.5メートル、長さ387メートルのガス橋には、川崎側欄干に「橋史」が掲げられていて、期成同盟会の委員長を務めた織戸四郎の回想分を読み取ることが出来る。
昭和6年(1931)9月に、ガス橋が完成したため廃止となった。