菅の渡し
菅の渡しは、上菅・下菅の渡しを統合して、その中間に一本化した渡しである。
 多摩川原橋開通(昭和10年(1935)11月)に伴い客が減ったため、昭和11年(1936)、上菅・下菅の渡しを統合して、その中間に渡しを一本化した。これが「菅の渡し」である。
場所は現在の「京王相模原線」の橋脚(下流側)の下あたり。
 菅野戸呂、芝間、河原の人々が対岸の調布にある畑に通う「作場渡し」であり、また戦後、京王閣競輪場が開設されてからは競輪開催日には大勢の競輪客で賑わった。
 渡しの管理は菅村で行った。渡しの地点は水流の多少で動いたが、渇水期の11月から4月は7尺幅の仮橋を架け、舟夫は西菅(上菅)と東菅(下菅)から5人ずつ出て合計10人で組織され、毎口1人ずつ交代で常時2人詰めた。
農業の片手間に交替で行われた。
菅村の人は1軒当たり、盆に麦4升、暮れに米2升を出して、他村の人からは船賃をもらった。
昭和48年(1973)で1人20円。渡し船は伝馬船(長さ3間・幅4尺)と馬船(長さ5間・幅10尺)の2艘で運航した。
(注)別の文献では渡し船は、馬船(長さ8〜9間・幅12尺)が2隻、伝馬船(長さ5〜6間・幅8尺)が1隻あったとある。
かつては棹で1押したが、後に両岸にワイヤーを張り、木の撞木(しゅもく)でワイヤーを伝いながら船を渡した。
 この「菅の渡し」も農地の宅地化、人々の自動車の利用、さらに昭和46年(1971)京王相模原線が多摩川を渡ってくるようになり、利用者が減ったため、昭和48年(1973)6月2日廃止となった。
なお、当時使われていた船頭小屋は、川崎市立日本民家園に保存されている。
昭和48年(1973)廃止された。

船頭小屋(在:川崎市立日本民家園)