六郷の渡し
六郷の渡しは、東海道が六郷川(多摩川)を越えるときに利用された渡船場。
 最も著名な渡し場で、文献資料にたいへん恵まれ、絵画にも多数描かれているが、いち早く廃止されたため、聞き取り不能で、写真もほとんど残されていない。
 六郷の渡しは、東海道が六郷川(多摩川)を越えるときに利用された渡船場だ。
ここには、始め六郷大橋が架かっていた。
江戸入府間もない徳川家康は、五街道を制定し、慶長5年(1600)に六郷川の架橋を命じたのだ。
それが、度重なる洪水で破損、落橋を繰り替えしていたものの、それでも約90年近く、六郷大橋は続いた。しかし、貞亨5年(1688)の大水で六郷橋が流失してから、渡船に替わった。以後、明治7年(1874)の佐内橋架橋まで、180数年にわたり渡船の時代となる。
 六郷渡船の請け負いは、始め荏原郡八幡塚村(大田区)が担っていたが、宝永6年(1709)からは川崎宿が行うことになった。
川崎宿名主で本陣の田中休愚が奔走して、幕府から渡船権を許されることになったのだ。
疲弊していた川崎宿も、渡船賃の収入を得て、宿財政の立て直しに成功した。
 川崎宿の定船場は、宿内船場町(河川敷にあった)に川会所、川高札場が設けられ、水主(かこ)小屋が並んでいた。
川会所では水主頭2人、会所詰2人、肝煎(きもいり)4人が常駐していて、渡船業務を仕切っていた。
なお、水主は総計24人いたそうだ。しかし、この船場町については、明和2年(1765)の絵図では確認できるが、その後の大水で流路が大きく変わり、船場町は消滅してしまったようだ。
 川渡船の数は全部で14艘、そのうち馬船が8艘、徒歩(かち)船が6艘だった。渡船賃は、始めは旅人1人が3文、荷物が1駄2文だったが、正徳元年(1711)の改正で、旅人1人10文、本荷1駄15文、軽尻(からじりうま)12文と定められた。さらに、天保15年(1844)には5割増になった。
 渡船場の利用は、基本的には武士は公用ということで無料、そのほかの旅人は定賃銭に従って有料だった。荷物を付けたままの馬は、船に乗せることは禁止されていた。また、川が増水した時は、「川留め」といって、船渡しは中止となったのだ。
 六郷の渡しは、絵図や絵画に数多く描かれた。幕府の道中奉行が編集した『東海道分間延絵図』には、「渡船場 河原幅凡250間、常水凡140間」との説明書きで描写されている。そのほか、『江戸名所図会』の挿絵、安藤広重や葛飾北斎を始め、多くの浮世絵画家たちによって描かれている。
そのなかには、大名行列の渡河や明治天皇東幸の船橋などの絵もある。
 享保13年(1728)ベトナム生まれのアジア象が、長崎にやってきた。
2匹いたが、メス象が上陸後病死、残るオス象が陸路を2ヶ月かけて江戸に向かったのだ。
川崎宿では、御用象が足を踏み抜いてはいけないと急遽、宿内に土橋・板橋を石橋に掛け替えた。
そして、六郷の渡しだ。
始め、船を横一列に並べる船橋が計画されたが、具合が悪いということになり、3艘の船をもやい船にして、ゆっくり渡したといわれている。
明治7年(1874)に、佐内橋(六郷橋)が開通したため廃止となった。



六郷の渡

武州六郷船渡図