二子の渡し

二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。
 右岸(川崎側)は、二子橋の入り口手前のそば屋の角(現在の二子一丁目)近くに、木柱の「旧大山街道二子の渡し入り口」の表示がある。
そこから川に向かって未舗装の2.5メートルの小道が残っている。左岸(東京側)は、現在の二子玉川駅下流約100メートルに、陸閘が川原への入り口として残っている。
そこから川に向かって進むと、玉川福祉作業所(世田谷区玉川一丁目7)前に「二子の渡し跡」の石碑が立っている。
 あばれ川の多摩川は、しばしば洪水に見舞われ、その都度、渡しの乗り場は移動したが、大体、現在の二子橋を中心に右岸は上流、左岸は下流と見られ、橋を斜めに横切って運用していた。
街道の渡しでありながら、始まりの記録ははっきりしていないが、『川崎市史』によると、二子の渡しは元禄年間(1688〜1703)からあったと記述されている。
ちなみに、二子村・溝口村が大山街道の宿に指定されたのは寛文9年(1669)。
江戸時代中期・後期には大山参りの参詣客や、江戸からの物見遊山の客などで、賑わった。
更に、たばこ、鮎、生糸、炭など、相模地方の産物を江戸に送る道としても利用された。
 渡し場の権利は、元禄年間に上丸子の者が所有、その後は両岸の村持ち(最初は二子・瀬田)になったが、争いが絶えなかった。
天明8年(1788)からは共有となった。明治45年(1912)に神奈川県と東京府の境界変更が行われ、権利は瀬田のものとなった。
しかし、大正11年(1922)に二子側で、二子・溝口から市ヶ尾までの村々で「渡船組合」を造り、組合員は無料で乗船できるようになった。
渡船組合の最後の元締めは、二子新地の「川秀」と言う料亭だった。
 大正に入ると、渡し舟は、徒歩船と馬船の二種類になった。
大正11年からは、両岸にロープを渡し、滑車をつけてたぐりながら渡す方法をとった。
当時、渡し場近くの多摩川は、現在より水量も多く、船も大きく1艘に牛車8台を乗せ、船頭は2人または3人、時には4〜5人で漕いだ。
舟は2〜3艘あり、通行人が集まり次第運行し、河原には船頭小屋もあった。
大正初期の料金は、1人(片道):2銭、自転車:5銭、荷車:5銭だった。
 江戸時代でも、水量の少ない冬季は、架橋して歩いて渡った。大正14年(1925)、二子橋の開通で、渡しに必要はなくなり廃止された。
廃止年月日:大正14年(1925)、二子橋の開通で廃止された。