中野島の渡し
中野島の渡しは、対岸の耕作地に渡る作場渡しである。
 「中野島の渡し」は、明治18年(1885)、中野島村と対岸の下布田駅、国領駅、上給村の4か村の共同経営として開設された。通行の人、馬、車の賃金は有料であるが、4か村の住民は無料であった。
川崎側では、対岸の耕作地に、また東京方面へ多摩川梨や桃の出荷、肥ひきのために、生田・中野島の人たちが利用した。
川を渡って国領に出、甲州街道を通って新宿から江東までいった。また毎月25日、対岸の布多天神のボロ市へ買い物に行く人びとで賑わった。
 船は伝馬船と馬船の2艘で、棒でこいだが、多摩川はこの辺ではいくつかの流れに分かれており、細い流れには仮橋があって、本流のみに船があった。
 村内には、2本の道が多摩川に通じ「上の渡し場道」「下の渡し場道」と呼ばれていた。
「上の渡し場道」は、現在の中野島駅前から多摩川へ向かう道を、途中から右へ曲がり込んで、多摩川へ出る道である。
「下の渡し場道」は、現在の中央商店街通りのこと。
渡し場は、雨が降ると川の流れが変わるので、上・下の渡し場道の間を上にいったり、下にいったりしていた。
この渡しも、多摩川原橋開通と共に荷車が、そちらを通るようになり、多くの文献によれば、昭和10年(1935)頃廃止になったとある。
 地図をみると、
1)明治39年(1906)測図の「下布田」二万分の一の地図では、渡し名の表記はない が、「下の渡し場道」から道筋が対岸に延びている。
2)明治42年(1909)「測図・大正6年(1917)修正の「東京西南部」五万分の一の地 図では、中野島の所に舟のマークがあり、それは「上の渡し場道」のところに ある。
3)大正6年(1917)の「溝口」二万五千分の一の地図でも、渡しの表記は無いが、 「上の渡し場道」から筋が対岸に延びている。
4)昭和12年(1937)測量「登戸」一万分の一の地図では、「中野島渡」とあり、場所 は「上の渡し場道」と「下の渡し場道」の真ん中やや下流より。
5)昭和20年(1945)米軍測量「登戸」一万分の一の戦災復興地図では、「中野島 渡」とあり、場所は同じく上・下の真ん中やや下流。
 これらからも渡船場が、上・下の渡し場の間を移動していることが分かる。
昭和12年(1937)・20年(1945)の地図の「中野島渡」とあることに関しては、地元旧家の方によると、その人の小学校時代つまり昭和14年(1939)頃から多摩川でしょっちゅう泳いでいたが、渡しなど無かったとのこと。
また、昭和20年(1945)に中野島に来たという商店主は渡しのことは聞いたことがないという。
 中野島の渡しに関する資料は少ない。
廃止年に関してもはっきりした年を確定するのは、今となってはむずかしい。
戦争前には無くなったという見解もあり、ここでは昭和10年(1935)を過ぎ、3〜4年は存続したと考えたい。
昭和10年(1935)、多摩川原橋の開通で廃止された。