羽田の渡し
地元では「六左衛門(ろくぜいもん)の渡し」と呼んでいた。
羽田への作場渡しであったが、川崎大師への参詣路にも利用された。
 多摩川の渡しとしては、最も河口に近い場所にある。
別名を、「六郎左衛門の渡し」というが、地元の人々は「六左衛門(ろくぜいもん)の渡し」と呼んでいた。
江戸時代に稲荷新田を開発した名主の小島六郎左衛門の名前をつけたのだ。
その起源は定かではないが、対岸の農耕地を耕作するのに利用した作場渡しとして開かれた。
その後、川崎大師への参詣ルートとして利用されるようになる。
 天保13年(1842)に、川崎宿の役人から、羽田の渡しを経ての大師参詣を禁ずる願いが提出されている。
どうやら、大師参詣人の渡船賃が、かなり大きな収入源になっていたものとも思われる。
 常設の渡しで、江戸時代には長さ5間2尺、横幅6尺の船が一艘、2人の水主で就航されていた。
水主は、村人たちが順番で勤めたそうだ。
稲荷新田・大師河原・川中島・池上新田・糀谷・浜竹の六ヶ村で、一軒に付き一定の麦籾を費用として出し合い、羽田村や猟師町では船の修理を受待った。
そこで、渡船料は8ヶ村の人々は無料、他所の者は5文づつ徴収したという。
明治になっても、だいたい同じようで、渡船賃は3銭〜5銭、土地の者は無料だった。
 船着き場は、右岸は上殿町にあり、左岸は羽田三丁目の元城南造船の脇で、水月堂という和菓子屋の前にあった。上殿町では、出来野厳島神社横から延びる渡し場道が、まず土手にぶつかり、河原に下りて、じぐざくに進んで船着き場にたどりついた。
船着き場の左手には、水路が入りこんでいて、番太河岸という河岸場になっていて、奥の方は船大工(森)の家があった。
 渡し場付近には、どちらも商店が立ち並び、賑わいを見せていたようだ。
羽田の水月堂の前に、道標を兼ねた供養碑が立っていたが、現在は近くの竜王院の境内に移されてある。
昭和14年(1939)に、大師橋が開通したために、大師の新渡しとともに廃止になった。
参考情報:対岸の羽田の堤防上にも大田区が建てた石碑がある。(高速道路大師線下)