久末を歩く
11月18日(日)13:00〜16:00

 高津区の丘陵台地を刻む谷戸の地形からの自然と高台農地そして社・寺 めぐり
 の多彩なコース。不便なところでしたが、晩秋の青空に支えられてか、40名を越
 す歴史愛好者が新しい発見を楽しみながら久末を歩きました。


妙法寺 久末義民地蔵尊が昭和58年に移された

     妙法寺の板碑 現在市内最古ので、歴史史料として重要
 
                        久末村義民地蔵事件とは・・・・

 元禄6年(1693)久末村を領有していた旗本、佐橋内蔵助佳純は検地を行い、従来の229石を一挙に100石増加して329石とした。石高の増加は年貢の増加に連動した。当時の年貢が6割から7割の高率で、農民たちの困惑は大変なものであった。名主にかけあったが名主は「我慢しろ」というばかりで解決しなかった。
 困った村人は旅の老僧にどういすればよいかを尋ねた。老僧は願い状を書いて、この状ならきつい言葉もないし、領主様も判ってくださるでしょうと言った。
 村人達は最初(1陣)は3人が江戸の領主宅へ赴いたが幾日たっても、3人が帰ってこなかった。
2陣として6人を送り出したがこの人たちも帰ってこなかった。さらに、3陣、4陣と総員20人が江戸へお願いに行ったが19名が帰ってこなかった。
この尊い犠牲に報われないかと悲嘆にくれていた村人に、さすがの佐橋内蔵助佳純も自らの非を悔いて年貢の減免を伝えてきた。
 その後、延享3年(1746)村の人たちは、帰ってこなかった19名の人の供養の為にお堂を立ててその中に石像を安置した。安置場所は昔は何箇所もあったが、現在は 達野と妙法寺に残っています。
久末のふれあいの森:(平成5年(1993)土地所有者のご好意により竹林と雑木林が開放され静かな憩いの森となった)を歩き、高台の見晴台に出ました。

 この高台一帯は市街化調整区域です。ここから、東北を中心として180度の見晴らしは見事で、武蔵小杉駅付近の高層マンション建設や、東京、横浜方面を見渡せながらの野菜作りは格別ではと思います。

 久末の農業は、義民地蔵事件の頃から、台地では穀類主体でしたが、大正初め頃から、野菜作りの研究が始まり、大正4年に村の青年団が第一回の農作物品評会を開き、その後野菜の出荷組合が作られ「たくわん用の干し大根」が20万本出荷され、久末の特産になったのが、野菜作りの本格化で、大正末期まで順調に需要が増えた。
 昭和の初期頃に穀物(麦)の暴落で野菜作りに拍車が掛かかった。
 第二次世界大戦中は穀物の出荷が義務付けられ、穀物主体に戻されたが、戦後は、絶好の換金作物として多種、多様の野菜作りになり、ハウス栽培も導入され、最近では、コンピュータ制御までに発展したハウス栽培で、四季を通しての野菜が出荷されている。

生産量は川崎市の野菜生産の約40%がこの高台農地で生産されているとか。また、川崎産物登録一覧表には、久末キャベツ、久末ブロッコリー、久末トマト、久末カリフラワー、ほうれんそう、こまつな、橘の湘南レッド(玉葱)などが登録されている。  
 高台農地の用水もちゃんと整備されています
                       地下水→
久末天照大神 明治42年に町内6社を合併 総鎮守
蓮花寺
円融寺
子母口貝塚:貝殻が沢山散乱しています、
縄文時代(約八千年前)この下まで海でした、この台地に住む人達が、海の貝などを食べた貝殻沢山散乱している
蓮乗院

橘神社

高津区 「久末」の歴史・都会の中の高台農地、そして子母口貝塚を見聞した、すばらしい秋の一日でした。
                                       リポート:眞田