多摩川散策こみちを歩く(通算35回)
![]()
秋のお天気に恵まれた12月10日(日)午後1時、南武線津田山駅に続々集合
| 子供さんも参加、総勢72名で久地水辺の歴史散策です JR南武線津田山→石橋供養塔→平瀬川→平瀬川トンネル→津田山・津田山団地→久地神社→ 久地不動尊→二ヶ領用水→円筒分水→久地の分量樋跡→久地の横土手→養周院→久地梅林公園 →旧堤防の途中で定刻と寒くなりましたので中止しました。 |
|---|
リーダーの挨拶から・・・ ![]() |
S15年前の平瀬川は「上の橋」から溝の口方面に直進していたが洪水対策でここから曲がって津田山を貫通して多摩川に流すようになりました![]() |
|---|---|
| 津田山・津田山団地:S2年玉川電鉄が二子橋を渡って高津村に乗り入れた、津田山は玉川電鉄の社長津田興二の名前を取って命名された。津田山公園広場です。 今は遠く丹沢・大山・富士さんを望む快適な住宅団地 ![]() |
平瀬川トンネルの出口。豪雨による度重なる中流域の洪水を防ぐ為5ヶ年の歳月で左の小さいトンネル工事がS15年に完成したが、S45更に洪水対策で右の大きなトンネルを増強して50mm/時流の雨量に対応しています![]() |
祭神は天照大神社殿はS41、久地地区の三社を合祀したときの建築です、裏の高層建築は860戸のマンション![]() |
400年前小泉次大夫が徳川家康の命を受けて14年間掛けて稲毛・川崎に新田開発のため作った二ヶ領用水。 総長さ32Kmで現川崎市全域に用水を与えた ![]() |
| 二ヶ領用水完成100年後荒廃された用水を田中休愚が改修工事をした。32Km大浚と四ッの堀に、決まった水量比に分けるため久地分量樋を作った。 二ヶ領用水を甦らせた。新田開発に拍車をかけた。 ![]() |
新田開発と共に用水が不足した、川幅で分量した自然配分は川の中央と川岸の流量差を補う事が出来ず、日照りで水不足時には水争いが絶えなかった。これを解決したのが、S16年完成の「久地円筒分水」です 平瀬川の下を潜ってきた水を円筒の堰に導き、溢れ出る水の量は円周の長さ比率に配分される。平賀栄治作 ![]() |
300年前に田中休愚が用水の水を耕作面積によって4っの用水掘に分流する、木製「久地の分量樋」跡の石碑が歴史愛好市民の熱意で建てられました。![]() |
二ヶ領用水の「久地分量樋」前に、860戸の大型マンションが建設中で、更に多くの人が二ヶ領用水を環境水として親しむことでしょう。![]() |
元禄の頃、多摩川の氾濫から久地分量樋や下流村を守る為、二ヶ領用水と直角に横土手を関東郡代が作り始めたが、時折の洪水による、工事の難航と上流部落が水に浸かる激しい抗議と妨害で240mで中断された、その陰には幾つかの悲劇があった、その供養塔がある![]() |
川辺森右衛門が幕府(八代将軍吉宗の頃)から園芸樹種改良を命じられ事と梅の実を販売することで、屋敷に数百株の梅を植えた、これが年を経て早春見事な花を咲かせ、久地一帯が梅林となり東京近郊のの「梅の名所」となった。その川辺家の家が健在です![]() |
久地梅林公園です、川崎市が残された梅林を公園としたものです。川辺邸の前にあります。北原白州の歌碑![]() |
旧堤防、1700年ほど前、溝の口・大山街道二子方面を多摩川の洪水から守るため、二子神社裏まで作られた霞土手でその後改良されて現在に至る。S8年から現在の新堤防が出来たので旧堤防と呼んでいます。![]() |
二ヶ領本川、円筒分水堰(多摩川取水口から円筒分水堰までの用水)から余水が平瀬川に流れ落ちています![]() |
|---|
| 秋の日和に、久地の水辺を散策でした、こんな水の歴史があったのかと初めて知った方が多かったようです 我々の祖先が水でこんなに苦労したのかと歴史の深さを感じた、子供さんがいたので次世代に受け継ぐこと も出来たようです。皆さん何時までもお元気で!!! 眞田 記 |
|---|