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みんなで歩こう二ヶ領用水
旧町田堀跡をたどる

日時  : 2010年9月26日(日) 13:00~16:00

天気  : 晴れ
探索エリア   : 鹿島田駅前から尻手駅までの旧町田堀跡
参加者数    : 128名

≪コース≫
鹿島田駅前 → 大師堀のミニ水路 →町田堀と大師堀との分岐点 → 平間配水所 →日本初の工業用水道説明板 →  町田堀の説明碑 → 水路跡の遊歩道 → サウザウントシティ構内ミニ水路 → 町田堀ふれあい公園 →町田堀緑地 → 町田堀・南河原用水分水点跡碑 → 江ヶ崎堰跡 → 南河原堰跡 → 矢向二ヶ領公園 → 二ヶ領踏切 → 二ヶ領水路地跡の碑 → 良忠寺 → 最願寺 → 日枝神社 → 尻手駅

≪調査内容≫
今回の散策は、ミニ水路として復元された大師堀を歩き、鹿島田駅から尻手駅までの旧町田堀跡を散策した。農業用水としての役割を終え、すっかり埋め立てられた町田堀は、ミニ水路の形で復元した緑道や公園、水の流れをイメージしたカーブラインの遊歩道として整備されていた。流路は姿を消したが各所で歴史をよみがえらせていた。

今年度最初の「みんなで歩こう二ヶ領用水」は、市政だよりで広報したこともあり、128名の参加があった。
4班に分かれ、散策を開始した。
<写真1>鹿島田駅前

大師堀は、大師河原一帯や瀬田方面の水田を潤していた。近年に入り、埋め立てられるところがでてきたが、最近、ミニ水路として復元され遊歩道となっている。このミニ水路は、街路際をしばらく流れ、下平間小学校のグラウンドに入り、終わりとなる。

<写真2>大師堀のミニ水路

昭和14(1939)年に、日本初の公営工業用水道施設として設立され、平間浄水場として使用されていた。後年、工業用水の需要が減り、二ヶ領用水の水質悪化などで、浄水場の機能を止め、平間配水所と変わっていった。

現在は、生田浄水場で工業用水として処理された二ヶ領用水の水20万㎥が、送水管で送られてきて、ここから市内100件くらいの工場に6台の送水ポンプを使って配水されている。
<写真3>市水道局平間配水所

久地円筒分水から分水され流れてきた川崎堀はここで二筋に分かれる。右が町田堀、左が大師堀。

昭和初期くらいから工業化が進み、水田が減り二ヶ領用水が余るようになり、この余り水を工業用水として使い始めた。
<写真4>大師堀と町田堀の分岐点

「わが国最初の工業用水」とあるが、「公営工業用水」と表現するべきだろう。
<写真5>日本初の工業用水道説明板

町田堀について解説した石碑。かつてこの場所を二ヶ領用水の水が流れていたことを後世に伝えている。

町田堀の「町田」とは、江ヶ崎・矢向・市場・菅沢・潮田など「旧町田村」一帯の水田を灌漑していたことから言われるようになった説と、鶴見川沿岸の大水田地帯1,000町田を潤していたことから「町田」と付けた説がある。

今はすべて用水路の姿を消し、流路跡は遊歩道や道路敷になってしまった。
<写真6>町田堀の説明碑

町田堀は、長い間水が流れずに堀跡のみが見える状態が続いていたが、近年この堀跡を水の流れがイメージできる散策路として整備し、偉大なる歴史と役割を後世に伝えることとした。
<写真7>近年整備の町田堀

遊歩道化する前は、ゴミなどが捨ててあり汚い状態だった。
<写真8>遊歩道化する前の町田堀

町田堀は、元東芝タンガロイ工場の構内を流れていた。工場跡地にサウザウントシティが建てられ、町田堀はミニ水路として復元された。説明板も設置されている。
<写真9>サウザウントシティ構内のミニ水路

公園の名前に、「町田堀」を残した。ミニ水路はここまで流れている。
<写真10>町田堀ふれあい公園

南武線線路に沿って緑道が続いている。ところどころベンチが設置されている。

この先町田堀は、南武線線路の下をくぐり塚越、小倉、矢向へと流れていた。
<写真11>町田堀緑地


さいわい歴史ガイドサインの一環として設置された。

町田堀は鶴見区の方へ流れ、南河原用水は矢向駅前を通り河原町や南河原を流れていた。

二つの用水は、しばらく平行して流れていた。





← 町田堀・南河原用水
  分水点跡碑

<写真12>町田堀・南河原用水分水点跡碑

東洋食品機械工場前の分かれ道に、江ヶ崎方面へ分水する堰があった。
<写真13>江ヶ崎堰跡

町田堀と平行して流れてきた南河原用水の堰があった。この先、町田堀は横浜市に入る。横浜市に入ると「町田堀」という名称がなくなり、すべて「二ヶ領用水」と表示されている。
<写真14>南河原堰跡

二ヶ領用水の名を付した公園。

<写真15>矢向二ヶ領公園

ここにも二ヶ領用水の名を付した踏切がある。

尻手駅から新鶴見信号場間の貨物線(尻手短絡線)の旧流路跡の踏切である。

<写真16>二ヶ領踏切


良忠寺の裏手に立っている。1972年(昭和47)に矢向地区の人々が埋め立てられた二ヶ領用水の跡地を国から払い下げを受け、道路と緑地帯に整備し、用水堀に架かっていた石橋を利用して、水路跡地の記念碑を建てた。
<写真17>二ヶ領水路地跡碑

二ヶ領水路地跡碑からまっすぐ流れきた町田堀は、良忠寺に沿って右に曲がった。『曲がり』と呼ばれ、良忠寺橋の石橋があった。

ここの護岸は、大量の水が曲がることにより傷むので、石で造られていた。また、この護岸の石が道路の下に埋まっているそうだ。
<写真18>曲がりと良忠寺橋跡

浄土宗寺院。1240(仁治元年)年の創建で、開山は、浄土宗第三祖の記主禅師良忠上人と伝えられている。境内には弘法大師作と伝えられる身代わり地蔵や新田義興の矢を止めた矢止めの地蔵がある。
<写真19>良忠寺

矢止め地蔵堂前に、「ぢざう橋」と刻まれた橋柱がある。これは、近くを流れていた二ヶ領用水に架かっていた地蔵橋の名残といわれている。
<写真20>ぢざう橋橋柱(良忠寺境内)

1308(延慶元年)年の創建といわれている。浄土真宗の寺院。寺伝によると往古は真言宗だったが、慶長年間に真宗に改めた。本堂前に緑泥片岩製の板碑があり、当寺開山の墓碑と伝えられている。
<写真21>最願寺


1638(寛永15)年の創建といわれ、山王大権現と称せられ、矢向・市場・江ヶ崎・塚越・古川・下平間・上平間7ヶ村の鎮守だった。天保の末年に各村は分離して、矢向村だけの鎮守となった。1873(明治6)年に日枝神社と改称した。

境内に『豊遊石』と刻んだ大石がある。江ヶ崎村の鴨志田与右衛門が、この大石を背負って歩いたら、地面にくっきり足跡がついたと伝えられている。





← 豊遊石
<写真22>日枝神社