みんなで歩こう二ヶ領用水 A

円筒分水と蛇行の旧川崎堀

 

日時 : 2009年10月25日 13:00〜16:00

天気 : 曇り

探索エリア : 高津区内の二ヶ領用水

参加者数 : 45名

 

≪コース≫

久地円筒分水 → 「久地分量樋」跡 → 平瀬川トンネル → 厚木街道陸橋 → 

すくらむ21 → 法泉坊橋 → 濱田橋 → 大石橋(大山街道) → 曙橋 → 

川崎堀・旧川崎堀・旧平瀬川 → 弁慶橋 → 旧川崎堀と旧平瀬側の合流地 →

二子坂戸緑道 → 石橋供養塔

 

≪調査内容≫

今回の散策は、久地円筒分水から蛇行していた旧川崎堀を探り二子坂戸緑道まで歩いた。

旧川崎堀は、暗渠とし道や緑道、公園、下水口、駐車場、駐輪場などにされており蛇行して流れていたことを感じられる場所もあった。

旧河川をどのような形で残していくのが良いのか考えさせられた。

 


<写真1>二ヶ領用水本川

1590年江戸に入った徳川家康は、治水・新田開発に力を注ぎ、小泉次大夫に江戸側と川崎側の両岸に水路を造るよう命じた。

川崎側は稲毛領、川崎領の2つの領地に水路を造ったことから二ヶ領用水と呼ばれている。

1597年から14年間の歳月を費やし32qの水路が完成した。

二ヶ領用水は時代とともに用途が変わり、農業用水→工業用水→環境用水となった。

 

 

<写真2>平瀬川トンネル

平瀬川トンネルは豪雨による氾濫を防ぐため、昭和15年〜20年にかけて掘られた(左のトンネル・・・30㎥/秒)。

その後急激な都市化により雨水の浸透性が低下し、氾濫を繰り返すようになったため、

昭和45年に2本目のトンネル(右のトンネル・・・80㎥/秒)の建設が行われた。

現在は、雨量50o/時までなら氾濫しないように整備されている。

 

 

<写真3>二ヶ領用水「久地分量樋」跡

用水が完成して100年あまり経ち、荒廃が進んだため田中休愚が改修の命を受け、さらに用水を4つの幅に分け、

各堀(久地二子堀・六ヶ村堀・川崎堀・根方堀)の分量比率を保ための分量樋を作った。

しかしこの分量樋では正確に分水することができず、水の分配を巡り水騒動が起こされていた。

久地分量樋のあった位置にこの石碑が建てられている。

 

 

<写真4>久地の横土手

横土手は、溝の口の50ヶ村を多摩川の氾濫から守るため、川に対して直角につくられた。

工事中に土地の一部に民家の飛び地があることが解かり、240m進んだ所で工事が中断となった。

この工事の陰には2つの悲話が残されている。

 

 

<写真5>久地円筒分水

川崎堀入口

 

平賀栄治の設計で建造された。水量が変わっても分水比は変わらないよう工夫された施設で、水騒動を解決するために考えられた。

その技術は当時、最も理想的かつ正確な自然分水方式の一つであった。

平成10年に、川崎市で初めて国登録有形文化財に登録された。

 

 

<写真6>厚木街道陸橋

旧川崎堀の流れ

 

旧川崎堀は厚木街道を横切って大きく屈曲していた。
すくらむ21から法泉坊橋・西浦橋辺りまで、旧川崎堀は大曲していて、六ヶ村堀の近くを平行して流れていた。

 

 

<写真7>法泉坊橋

 

 

<写真8>濱田橋

 

高津文化協会会長の鈴木穆氏より説明があった。

濱田橋は、溝口出身の陶芸家濱田庄司を顕彰して命名された。

この橋は昭和16年頃にでき、当時は丸太一本掛かっていただけの橋で、濱田庄司は幼い頃この二ヶ領用水で泳ぎ遊んでいた。

また、橋を渡ると濱田庄司のお墓がある宗隆寺に通じている。

濱田橋の碑は、平成4年に建てられた。

濱田庄司は春を中心に活動していて、春は益子、冬になると琉球(沖縄)へ行っていた。

そのような事からこの濱田橋に陶板で「春去春来」という言葉が残されている。

 

 

<写真9>旧川崎堀

 

旧川崎堀は西浦橋を横切り蛇行している。

民家の間に旧川崎堀跡が残されている。

 

 

<写真10>旧川崎堀(池田屋染物店跡)

旧川崎堀に沿って染物屋の倉があった。

当時、目の前にある川で染め布を洗い干して店を営んでいた。

溝口一番の染物屋の干し場がここにあった。

 

 

<写真11>大石橋

大山街道と交差している。

江戸時代は文字どおり大きな石橋であった。

この橋の北東部に、江戸時代の中頃から代々溝口・二子屋の問屋役をつとめた名主丸屋の屋敷があった。

1821(文政4)年の溝口水騒動はここで起きた。

現在屋敷があった所は、駐車場となっている。

 

 

<写真12>陶芸家濱田庄司の家

濱田庄司が少年期を過ごした家。

現在は洋菓子ケーキ大和となっていて、店内には作品が飾られている。

 

 

<写真13>曙橋付近

川崎堀は曙橋を通過して田園都市線をくぐっている。

旧川崎堀は大石橋を過ぎた所から田園都市線をくぐった辺りまで、蛇行せず現川崎堀と同じ所を流れていた。

 

 

<写真14>旧川崎堀

旧川崎堀が確認できる。現在は水の流れはない。

蛇行していたのがよく分かる。

 

 

<写真15>旧平瀬川

旧平瀬川が確認できる。

現在は水の流れはない。

旧平瀬川は、現在の高津中央病院の前あたりに中原堰(碑が建っている)があり、そこからしばらく流れ旧川崎堀に合流している。

中原堰があったあたりの旧平瀬川は、駐輪場や遊歩道化されている。

 

 

<写真16>旧川崎堀と旧平瀬川合流点

合流点

 

旧川崎堀と旧平瀬川の合流するあたり一帯を「溝落」と言われていた。

二子から溝(川)が落ちるということ。

今はこのあたりで落ちているが、昔はもっと下流で落ちていたかもしれない。

 

 

<写真17>旧川崎堀

旧川崎堀と旧平瀬川が合流した先に弁慶橋ある。

この橋から旧川崎堀は暗渠となり、現在は下水口として使用されている。

旧川崎堀の用水を残しているのはここだけ。


<写真17>二子塚近くの旧川崎堀

水の流れが少しある。

 

 

<写真18>二子坂戸緑道

二子坂戸緑道は、旧川崎堀を緑道化(公園化)して作られた。蛇行して流れていたこを感じられる。

旧川崎堀は二子村と坂戸村の境にあった。

坂戸という地名は、埼玉県の坂戸から移住してきたという説と砂地であるからという説がある。

 

 

<写真19>石橋供養塔(二子坂戸緑道入り口)

坂戸村から二子方面に行くための唯一の橋(坂戸橋)がここにあった。

1793(寛政5)年に木の橋から石橋に架け替えられ、完成と同時に石橋供養塔が建てられた。

村内には日蓮宗と真言宗の信徒がいて、供養塔には橋の安全を祈って、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の文字が彫られている。